医療法人六峯会 近藤歯科医院
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医療法人六峯会 近藤歯科医院
住所:倉敷市笹沖455-3
電話番号:086-422-7133
ファックス:086-423-2337
Mail:kondo@mutu.jp
休診日:木午後・日・祝
診療時間
AM9:00〜12:30
PM2:00〜6:00
■休診日:木曜日午後・日曜日・祝日
■診療時間:AM9:00〜12:30・PM2:00〜6:00
■電話番号:086-422-7133
受付 スタッフ ドクター
 
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どくたーずコラム

■帯江鉱山(銅山)

鉱山の起源
 中帯江の北部丘陵地帯に銅の鉱石が眠っている事は古くから知られており、 天平勝宝4年(752)奈良の東大寺大仏鋳造に使われたと言われている。 標高僅か100m程度にすぎないが、かつては宝の山であった。 この丘陵では江戸時代にも銅鉱石の採鉱が行われていた事が記録に残されている。

鉱山の開発
 明治時代になると、政府の政策で藩の直営であった鉱業を民間に解放し、 誰でも一定の手続きを踏めば、鉱業を営めるようになった。(明治6年 日本鉱法)
・ 明治5年、中帯江 種野(くさの)誠一が、金田地区裏山で初めて開鉱(金才坑)
・ 中庄村 古谷亀しん治(きしんじ)、別府元太郎が開鉱(猿曳(さるひき)坑、鳥羽坑)
・ 黒崎村 難波農治(のうぢ)が開鉱(金堀坑)
この地帯は小丘陵であるにもかかわらず、岡山・倉敷に近く、又当時藤田は海であったが、 六間川を経て児島湾奥の彦崎港に通じる船便がある。 大半の鉱山は交通不便な山奥にあるのとは大違いで、 全国的にもこれ程好位置にある鉱山は珍しいと日本鉱山誌にも記されている。
明治10年頃は開発ブームで、激しい競争があり、 次第に地元以外の鉱業者が主役を占めるようになり、その中に三菱もあった。

(写真1)金才山鉱山

帯江鉱山の発展
(写真2)帯江鉱山の選鉱作業  明治24年岡山の坂本金弥が、三菱より買収したのを皮切りに、 周辺の小鉱山を次々買収して一本化し、「帯江鉱山」と名づけた。 その理由は明らかでないが、中帯江村が江戸時代から続いていた村名で鉱山のあった丘陵やその周辺を一般に「帯江」と呼んでいたからと推察される。
坂本金弥は進歩的な考えを持った人物で、経営を始めてから、人力から機械化を進め、 鉱石や湧き水の運搬にはトロッコを使い、蒸気機関で動く巻き上げ機、 動力で動く送風機を使った洋式溶鉱炉などを設けた。
六軒川のほとりに、鉱山専用の船着場があり、これ等の資材はトロッコで山に運んだ。 電力は福島の自家発電所から供給された。(今は面影も無い)
こうして規模を拡大した帯江鉱山は、銅の採収量や収益は明治40年には最高に達した。 当地の粗銅は大阪で更に精錬して、商社を通じて輸出された。他に、銀、鉛も採れていた。
鉱山の労働者は全国各地から来ていたが、四国・九州・新潟県や青森県からも来ていて、 1100名以上に及んでいた。農閑期には地元の人も働きに行った。
大寺や黒崎辺りに(現在倉敷自動車学校下に跡地がある)社宅があり、 号令長屋と呼ばれていた飯場もあり、朝早くから班長の大声が“西の院”にも聞こえたとか。
日常の生活用品は、鉱山の調達部で間に合ったが、周辺には小料理屋や食料品店が出来、 市街地よりも3年程早く、電灯がつき、賑わっていたとか。
中帯江でも、鉱山と関わって商売をしたり、定住する人も出てきた。 従業員達の中にも、休日には倉敷市内の小料理屋に繰り込んで、派手に遊んだ者もいたらしい。
百姓の人夫賃15銭位の時、鉱山では、日當平均で30銭から70銭位の時代である。

周辺の文化
 鉱山の南側は景光山不洗観音寺をはじめ貴船神社、いぼ神様など、 古くから庶民の信仰の山と成っている。鉱山のあちこちには十一面観音像が建っており、 “くわんのんみち”と刻まれた石柱が、周辺の村々に残っている。 特に観音寺は鉱山が発展するにつれ、参拝者も多くなって、中帯江参道の両側には、 旅館や商店も出来て賑わった。
 鉱山開発者 難波農治ら寄贈の石燈籠、 富田唯八や周辺住民寄贈による玉垣の石柱などが昔をしのばせる。
又観音寺周辺には、何人かの腕のいい宮大工が住んでいた。 寺は明治初期廃仏毀釈で荒れていたのを、再興する途上にあったので、 彼らは境内の回廊をはじめ、各種御堂建築に尽力した(林萬五郎ら)。
 当時備中南部では庶民文芸として、俳句や連歌が盛んであった。
明治28年坂本金弥に招かれて、鉱山の経理を統括していた近藤鍬之介(俳号 未来庵白骨)は、 鉱山関係者や周辺の福島・黒崎・鳥羽・中庄・中帯江の俳句社中を指導した。 詠歌社中という石柱を観音寺石段脇に見ることが出来る。 明治37年、盛大に立机式(句会)をあげた時の選句が鍬之介の筆によって書かれ、 その額が現在も、観音寺回廊正面に残っている。

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公害と労働災害
<煙害>
(写真3)帯江鉱山の精錬所がある丘陵は明治43年ごろもハゲ山だった  鉱山繁栄の陰で忘れてならないのは、公害である。 鉱山は精錬もしていたから、排出される硫黄分の多いガスのため、 周辺の山は松が枯れてハゲ山となったり、黒崎・鳥羽・仁部方面では稲の減収、 藺草の先枯れ、魚が死ぬなど、大気、水、田畑が汚染された。
特に中庄村側が深刻であったため、明治30年頃の記録では、村議会と補償問題が起きている。 南側の中帯江には、そういう話は残っていないが、住民は精錬所の移転を求めた。
鉱山は明治41年、個人経営から坂本合資会社とし、明治42年精錬所は犬島に移転した。
ハゲ山となったのは、燃料に使うため、松を採り続けた事も原因である。

<労働事故>
(写真4)富田唯八の墓  最も大きいのは、富田唯八の落盤事故と言われている。 明治5年彼は古谷氏に招かれて、中庄猿曳坑を発見したが、 明治15年事故死する。不洗観音寺西塀の外に、亀の上に乗った奇妙な墓がある。 碑文に詳しく鉱山師の心意気が書かれている。
 その他にも、事故や争いなどで、命を落とした人もあった。
西の院境内に、今も残っている弔魂碑は、明治42年頃建てられたらしいが、 台座に刻まれている氏名は当時の班長とか。然し殆ど他県の人で、住所不明で訪れる人もいない。
平成4年西の院では、帯江鉱山関係者や地元の人達で供養式を挙げ、碑を建てたのが、現在残っている。
又、現在のゴルフ場内にも、供養塔を建て、従業員やプレーヤー達が、折りに触れ手を合わせ、花をそえている。

<疾病など>
 坑内の重労働では、呼吸器病、怪我などが多かったようだが、 会社は常時医師2名いて、会社の費用で早期に療養させるので、大患に至らずと、資料に残っている。
但し、観音寺の壁には当時の悲惨な状況を物語る落書きが残っていたとの話だが、今は消されて無い。

閉山とその後
 大正期に入ると、産出量の減少などにより経営難となる。
大正2年 藤田組に売却
大正8年 操業停止
昭和5年11月陸軍特別大演習地となり、天皇の行幸があった。
その頃には、山にも小松が生え、山つつじが美しく咲き、つつじ山と言われた。
周辺の村人は弁当持ちで、山登りを楽しみ、三味線や太鼓の音も聞こえ、春の山は賑やかであった。 小学生の遠足地ともなった。
 児島虎次郎の絵「酒津の農夫」「酒津の秋」には、煙突が2本描かれているが、 小さいほうが先に倒され、後の1本は太平洋戦争中爆撃の目標となるので倒され、鉱山のシンボルは消えた。
(写真5)酒津の農夫 戦争中は軍部の要請で、藤田組が小規模に再開したが、本格操業には至らなかった。
昭和9年 完全に閉山、その後一時採鉱を試みたこともあるが完全休眠で藤田組は名称を同和鉱業と企業名を変えた。
昭和28年 同和鉱業用地を中心に地元地権者の協力を得て、 帯江鉱山の跡地は岡山ゴルフ倶楽部として県下二番目のゴルフ場としてオープンする。 坑道は埋め立てられ、整備され、美しい芝生となった。
 昭和35年頃には、まだゴルフ場南斜面、現在のゴルフ練習場の下、 観音寺駐車場の北には、横穴式の坑道が三つ残っていた。子供達の格好の探検場であったとか。
中の底知れぬ竪穴に、水がたまり、奥は岩盤に着きあったって、行き止まり。 不気味で怖かったと、言っている。現在はどこか跡形も無い。(深いところで253mという)
 帯江鉱山はこうした1世紀以上の歴史を秘めたまま、平和な現在に生かされている。

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2007年中国銀行カレンダーの絵画にも2本の煙突が見えます

現存する遺跡
(写真6)元発電所の煙突 中庄の交番付近に横たわっている元発電所の煙突です。レンガ造りで近くが資材等を運ぶ船着場でした。 (写真7)明治30年ごろの写真 明治30年ごろの写真を見ると船着場と左端に煙突が見えます。
(写真8)自動車教習所裏のレンガ建造物 自動車教習所の裏に現存するレンガ建造物 (写真9)自動車教習所近くの池 自動車教習所の近くに池があります
(写真10)自動車教習所近くの池-大正時代の様子- 同じ池の大正時代の様子、池の左の建物が当時の鉱山事務所で今の教習所付近です。 (写真11)鉱山採鉱現場付近の様子を留める山肌 今も鉱山採鉱現場付近の様子を留める山肌(黒崎)
(写真12)中庄の現在の風景 帯江鉱山跡(ゴルフ場)付近から見る中庄の現在の風景 (写真13)明治末の中庄の風景 同じ場所からの明治末の中庄の風景(同じ場所に西の院、性徳院があります)

参考文献
(写真14)岡山ゴルフクラブ、1番ホール 倉敷市史5、近代(上)、早島の歴史2通史編(下)、
帯江鉱山とその周辺の地域社会(池田陽浩著)

鉱山の歴史に残る人々(中帯江に関係のある人のみ)

富田唯八(とみたただはち)
 新潟県蒲原郡麓村の生まれ。若い時から鉱業に従事し、 自分の習得した技術を国の役に立てたいと全国を巡って、採鉱に専念した。
明治5年、古谷氏などが、中庄村仁部、猿曳に銅坑を見つけ、開坑した時、 富田唯八を迎えて、更に調査し、以後9年間新しい鉱脈を見つけるなど、 その功績は多大であり、帯江銅山の基礎を作った。明治15年、落盤事故で死去。
生前、不洗観音寺山内に、石碑を建立。 碑文には「故郷の父母を弔い、自分の仕事が、世の為、人の為になって、 名声を得た事を喜ぶと共に、後の世までも忘れないでほしい(亀は万年の如く)」と望んでいる。 また、観音寺境内には、彼による100円寄贈の石柱が建っている。
坂本金弥(さかもときんや)
岡山市の士族。京都同志社で新島襄(同志社大学創設者)の薫陶を受け、 23才の時、破産状態にあった帯江鉱山の経営に着手し、苦労して全国有数の鉱山にした。
坂本はこの鉱山による莫大な収益を得て岡山日報社を創刊した。(後の中国民報、更に山陽新聞となる)
自らも、衆議院議員となり、犬養木堂の強力な支援者でもあって、岡山県の政・財界で活躍した。
墓は岡山市網の浜にあり、周囲の堀には鉱山精錬所の耐火煉瓦が使われていると言う。 明治44年、彼の業績を顕彰する石碑が建てられ、現在、社宅跡地に残っている。

(写真15・16)近藤金弥、近藤鍬之介

近藤鍬之介(こんどうくわのすけ)
 岡山県邑久郡美和村(現瀬戸内市)西須恵の生まれ。 農家の子弟であるが、閑谷黌に学び、西微山に師事する。 俳句、和歌、書を好くし、文才があった。
小学校教員を経て、坂本金弥の岡山日報社に入社。 明治28年、請われて、坂本の経営する帯江鉱山の経営に参画する。 明治37年まで10年間経理を統括した。 当時、坂本をサポートする人物が何人か居たらしいが、詳細は不明で、近藤鍬之介の名も残っていない。
鍬之介は林萬五郎長女と結婚して、中帯江に定住した。 彼の鉱山との関わりは、中帯江にある彼の墓碑と遺品。 一人娘 賤子(近藤寛三郎の妻)の証言で知る事が出来た。
尚、鍬之介は若年より政治に関心があり、犬養木堂との縁で、明治37年、 妻と林萬五郎の長男、大字彦太郎(おおじ ひこたろう)を伴って渡米。 サンフランシスコで日本人会長をした。
大正2年病を得て帰国。大正4年死去、享年50才。


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